2013年1月28日

代表者プロフィール(中学校時代・つけたし)


鈴木浩之(すずきひろゆき)
1971年(昭和46年)4月生まれの41歳です。

中学時代までの恥ずかしいエピソードも含めて、ご紹介してきました。
このプロフィール紹介が、吉と出るか、凶と出るか・・・。
いづれにせよ全てを受け入れ、楽しむつもりです。

この後、高校時代、大学時代と引き続き綴っていこうと思うのですが、私に影響を与えて下さった先生のことを少し紹介して、次につなげたいと思います。

実は私は小学校、中学校と節目節目にこの人は!と思える先生との出会いがありました。
その影響で、学校の先生になりたくて大学は教育学部を選んだのです。

小学校3年生の時の担任の先生、大学を出たばかりの女性の先生でした。
とにかく授業が面白かった。学ぶ楽しさを教えてくれた気がします。
若くて美人の先生でしたのでよく友達とからかっていました。(反省・・・。)
おおらかで全てを受容してくれる姿勢は子どもにとって安心感がありました。

小学校4年生の時の担任の先生、大学を出たばかりの男性の先生でした。
特に体育と理科の授業の面白かったこと。理科の実験を生徒主導でやってくれました。
不思議に思うことをとことん追求する姿勢を受け入れてくれました。
好奇心を刺激され、その後の勉強の基礎を作っていただきました。

中学校3年生の時の担任の先生。この先生には本当にお世話になりました。
対立もしばしば・・・。今だから言えるのですが、殴りかかったこともありました。
でも、最終的には私を信じていろいろな面で応援してくれました。
「長」と名のつくものを押しつけたのもこの先生ですが、その経験が今、活かされています。

と、あげていけばあの先生も、この先生も…数えきれない先生との出会いがありました。
そして本当にお世話になったことを感謝しています。
二度と顔も見たくないと思うような先生と出会わなかったことは私にとっては幸運だったのかもしれません。

学校へ通う、先生と出会うということは、人生を左右する一大事なのです。
その自覚が先生にあるのでしょうか?

(続く・・・)

2013年1月26日

若い首長の件-その4

三重県知事、鈴木英敬氏(38歳)に関わるニュースです。
確かに地方交付税は地方固有の財源・・・。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130123/lcl13012314030000-n1.htm

2013年1月23日

代表者プロフィール(中学時代)


鈴木浩之(すずきひろゆき)
1971年(昭和46年)4月生まれの41歳です。

 これまで出身地のこと、幼少期~小学校までのプロフィールを紹介させていただきました。今回は、激動の中学校時代です。

 浜松市立北星(ほくせい)中学校に3年間通いました。私が中学校に通っていた時代は、公立中学校の男子=丸坊主という決まりがありました。今思えば、理由がはっきりしませんが、それはそれで便利だったと思います。
 
 部活動は吹奏楽部でした。担当した楽器は、小学校に続いて金管楽器のチューバです。この中学校も、入学前に分離していたのですが、一学年6クラスありました。まぁ、子どもの多い時代です・・・。その分、競争も激しかった・・・。

 1年生の時は、それほど劇的なエピソードはありませんが、勉強についていけてない感が強かったと思います。多少のいじめを経験したり、殴り合いのけんかをしたり思春期特有の嵐が吹き始めていたかと思います。

 2年生の時の一番大きな出来事と言えば、自転車で転倒、大腿骨骨折、手術、1か月以上の入院という経験をしたことです。この時、経験したことはその後の人格形成に大きく影響していると思います。(両親も良くそれを口にします。)

 入院中は友人が授業のノートを届けてくれたり、両親が毎日付き添いをしてくれたり、同じ病室の方々に可愛がってもらったり、他の病棟では人が亡くなったり・・・。「感謝」という言葉の意味を実感しました。

 反抗期だったのですが、両親への関わりも少しソフトになったと思います。でも、納得がいかないことはトコトン議論するという根っからの性格は変わらず、両親、先生に迷惑をかけていたかもしれません。

 長い入院生活を終え、勉強も追いつかなければいけないし、人間関係も修復しなければいけないし・・・とここからの追い上げが自身のチャレンジ精神に火をつけた気がします。

 足に金具を入れたまま周りの反対を押し切って校内マラソン大会に出場したり、テスト勉強を徹夜でしたりと無理しました。でも、それが人生の糧になっています。

 3年生になって、いわゆる学校の番長と同じクラスになりとても仲良くなりました。番長だった友達は、毎朝、私の家を訪ねてきて、いつも一緒に登校していました。不思議なことにその友人は、私を決して悪い遊びに誘いませんでした。番長だった友達は、良く警察のお世話になっていましたし、学校からいなくなることもしばしば・・・。でも、非常に仲が良かったのです。義理、人情の世界でしょうか?良い思い出です。

 学級委員長や委員会の委員長、部活の部長、生徒総会の議長など、「長」と名のつくものを嫌というほど経験したのもこの時期です。

と言った感じで、中学校時代を過ごしました。幼少期から続く、納得いかなければ武者震いがする、徹底的に議論するという性格はその後も続くことになります。

2013年1月22日

代表者プロフィール(幼少期~小学校)

鈴木浩之(すずきひろゆき)
1971年(昭和46年)4月生まれの41歳です。

幼少期
 浜松市立初生幼稚園に2年間通いました。年少では泣き虫で登園拒否もしばしば・・・母ちゃんのそばを離れられなかったようです。(その分、反抗期はすさまじかったです・・・反省)
 その反動か、年長になっていわゆる「ガキ大将」に変貌・・・。その子分役だった友人とは今でも付き合いがあります。
 いたずらやケンカも派手にやらかしました。やり方は反省していますが、正義感は強かったと自負しております。納得できない相手、自分より強い相手にしかケンカを挑みませんでした。

小学校
 浜松市立三方原小学校に3年生まで通いました。一学年6~7クラスありましたので1,000人を超えるようないわゆるマンモス校でした。1年生の時は、登校拒否気味(不登校ではありません。学校に行けないのではなく「不自由なので学校には行かない!」と強く思っていましたので・・・。)
 幼稚園の時同様、環境に慣れればこっちのもの。2年生からは学級委員などをして学校に行くのが楽しくなりました。なぜか「絵」だけは評価され、よくコンクールなどで入賞しました。
 三方原小学校は、マンモス校だったので、新しく学校ができて4年生からは浜松市立初生小学校に通いました。それでも一学年4クラスありましたが・・・。ここで吹奏楽をはじめました。(高校まで吹奏楽一筋の青春を過ごすことになります。)
 4年生以降も学級委員は毎年やりました。6年生の時は委員会の委員長や部活の部長なども立候補しました。周りは迷惑だったでしょう・・・。

 この頃、自分自身の基礎は築かれたと思います。納得しなければ、相手が誰であろうとトコトン議論しました。先生方にはその分、迷惑をかけていたかもしれませんが先生方もそれにトコトン付き合ってくれていた気がします。その後、中学、高校、大学・・・と続きます。
 



2013年1月21日

若い首長の件-その3

千葉市長・熊谷氏に関するニュースです。
熊谷市長は昭和53年生まれの34歳です。

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1211/21/news017.html

若い首長の件-その2

夕張市長の紹介です。鈴木市長は昭和56年生まれの31歳!
若い=良いとは思いませんが、可能性はあります。

http://www.city.yubari.lg.jp/contents/mayor/index.html

若い首長の件-その1

私が2年前まで4年間暮らした静岡県御殿場市のニュースです。
私と同い年の首長、年下の首長はいくらでもいますね…。

http://www.at-s.com/news/detail/474559523.html

2013年1月18日

老舗の宍粟市のネットワーク組織です。

これまで2年間、宍粟市の魅力も課題も情報提供していただいている「しそう保護者ネットワーク」さんのブログです。

http://ameblo.jp/h161122/

「宍粟草の根運動の会」を設立した理由

なんで「宍粟草の根運動の会」を立ち上げたのか?

宍粟市への転入 
私は家族で平成23年の4月に波賀町に引っ越してきました。転勤が決まれば、今度住む町はどんな所だろう?どんな人が住んでいるのだろう?子どもが通う学校は?先生は?と思いを巡らせるのが当然の心理・・・。それも「越して来て良かった。」と思いたいのが人情というものです。つまり、良いところを探し、自分を納得させたいのです。

第一のつまずき・・・
「空き家バンク」という制度をご存知ですか?http://www.city.shiso.lg.jp/kurashi/machidukuri/copy7_of_page3
 IターンやJターンを支援する制度ですが、これが非常に使いづらく、入居希望者と大家さんの負担が大きく感じます。そもそも賃貸を想定した住宅が非常に少ないですよね。となると入居希望者や大家さんが何らかの物理的負担(リフォーム、清掃などの条件整備)、心理的負担(現状を我慢したり、妥協したり)が生じてしまうのです。
 現在、市のホームページを見てください。紹介されている物件は、私が住宅を探していたときの半分くらいになっています。空き家バンクを利用して越してきた人がその後どれくらいいらっしゃるのでしょうか?いろいろな補助制度はあるようですが、積極的にアピールはされていませんし、入居希望者や大家さんの負担軽減としては不十分だと思います。そもそも本気で市外からのIターンやJターンを受け入れる気があるのでしょうか?と思ってしまいました。

また、つまづいてしまった・・・
 住宅以外にも、水道料金や国民健康保険料など市民の負担が高いことも市外からの転入が少ない原因であると思います。この状態を知っていれば、市内に職場があっても、他の市町から通勤するという選択もしていたかもしれません。転入が少ないことの要因は、転出が多いことの要因でもありますし・・・。

実際に暮らしてみて思うこと
 地域の方々にご支援いただき、「越して来て良かった。」と思い始めた矢先に、その思いに?(はてなマーク)が着き、首をかしげることも多くなりました。身近な政府(基礎自治体)が、機能していないのではないかと思うようになりました。
 千種の幼保一元化に関する請願書、波賀の給食センター廃止に関する嘆願書などの地域の運動(行政と住民のすれ違い?)を目の当たりにしました。住民投票条例がないことにも驚きました。合併して良いことがないという市民の不満や市の膨大な借金、職員の汚職の話も耳にするようになりますし、水道料金が越してきてすぐに値上がり(倍増)します。一部の市職員の対応にイラッと来たり・・・。

これはまずい!!
 地域の方々が、よそからの転入者を快く受け入れていただいたこと(私だけが思っているかもしれませんが・・・)を心から感謝しています。何かの縁あってこの地に暮らし始めたのですから、地域の方々が元気がなくなっていくのを見て見ぬ振りはできません。恩返しに何かできないかを考えた結果、草の根運動を自分でやってみようと考えました。(自分ならこれまでのしがらみがないので思い切った事ができると考えました。)

これからどうなっていくの?
 2年という短い時間ではありますが、市の様子を見ていて思ったことは、このまま住民の声が届かない政治、行政では人口流出はとまらず、特に北部地位はいわゆる限界集落になってしまうのでは・・・ということです。怖いのは宍粟市民(旧町民としてでもよいのですが)誇りを失ってしまうことです。「子どもに宍粟に残れとはよう言わん・・・。」「孫は出て行ってしまっても仕方ない・・・。」こんな声を聞くのは非常に寂しいことです。なぜですか?暮らしにくいからですか?自分たちの生まれ育った町への誇りはどこに行ってしまうのですか?
 このご時勢、市の歳入を増やすのは、非常に難しいことだと思います。国や県は市の面倒を見る余裕はありません。市町村合併も国からの地方交付税を抑えるための政策だと思います。よく言われることですが、歳出を徹底的に見直して、無駄を省き、必要なところに十分な投資をするしかないのです。必要なところとは、次世代の子どもたちを育て、高齢者の方々を支える「若者」が暮らしやすい町にするための投資です。
 市の財政担当者は親(国)から仕送りをもらっている下宿生のように自分たちの市を表現していますが、親からの仕送りが減ったら、それに頼らないでも生きていく方法を探さなければなりません。
 市町村合併をしたほうが、財政的に厳しくなる(実際にどうかというより、人口の少ない地域の実感、不公平感として)という現実に目を向けなかった。国や県に頼り切った姿勢がまずかったのでは?合併後15年、地方交付税が激減する「平成33年問題」は、確実に近づいています。

2013年1月17日

「宍粟草の根運動の会」を立ち上げました。

2013年1月『宍粟草の根運動の会』を設立しました。この会は、住民(特に子どもを育てる世代、高齢者を支える世代)の声を政治、行政に届けるためのネットワーク組織を目指しています。また、若者が政治に関心を持てるような情報を提供することも考えています。代表:鈴木浩之