2015年7月11日

請願は不採択…ってことは?【報告】

 
なんか “平和” だよね〜
宍粟市はここ2〜3日、とっても湿度が高く、ジメジメとした日が続きました。今日は比較的涼しくて過ごしやすい日になりそうです。もうすぐ梅雨明けかな?梅雨が明ければ本格的な “夏” 、宍粟市ではいろいろなイベントが開催されます。たくさんの人に宍粟市に来ていただきたいと思います。定住促進への第1段階、“交流” の機会です。“交流” ですので、あくまでギブ アンド テイク…外から受け取るものは物理的なものだけではなく、考え方や視点など目に見えないものまで含めて考えていきたいものです。そして、内からもお土産物など物理的なものだけではなく、スローな時間、気持ちの良い空気、目に優し風景、人情なども含めて提供していきたいものです。

臨時議会
 昨日10日に宍粟市議会は臨時会がありました。人数が少なくなってしまった(表現が難しい…)3つの小学校を統合し、新たな小学校を建設する「工事請負契約の締結について」っていう議案が上程されました。申し訳ないですがこの議案には “反対” しました。小学校の統合に反対しているわけではありません。合併以前からじわじわと進んできた過疎化、少子化が止められず子どもの人数が減ってしまった、今後もこの傾向は止めることができそうもない…教育環境、財政などいろいろな観点で “統合やむなし” という合意が地域内でとれている事案ですので… 。また本年度の当初予算に対して修正案をぶつけたのは、この予算についてではなかったですし…。
 今回、3つの小学校のうち、ある小学校を改修して統合するのではなく、その3小学校区から生徒が通う中学校の敷地内に新たな小学校を新築するという手法をとっています。当初はこの中学校に一番近い小学校を改修、増築しようという方向でした。しかし、現在の 細い進入路、児童一人当たりの床面積など総合して考えると “狭い” という印象は否めません。また、改修に相当の費用がかかることも予測できますし、新築となると財政的にその負担に耐えられるのか?という不安があるのも事実です。この “財政的な不安” は、住民の方にとってはあまりピンとこないかもしれませんし、“不安” という抽象的なことしか言えないのであれば議員としての存在価値はありません。この契約案件は可決し、4億1,580万円で新しい小学校の校舎が建設されます。この件は改めて…。

もう一つの本題…
 今回の臨時議会は、小学校の工事についての入札が6月30日に予定されていたので、落札されるだろう…という予測のもと以前から決まっていました。今回、そこに “請願” が提出されていました。『「安全保障関連法案」の成立断念を求める請願』です。宍粟市議会として「安全保障関連法案」の成立断念を求める意見書を提出してくださいという請願です。私自身は集団的自衛権、今回の安保法案には “反対” する意思を固めていますので、“採択” すべきという側です。賛成討論で長々と、なぜ “採択” すべきかを述べ、他の議員を説得しましたが、賛成6、反対9、欠席2…で “不採択” となりました。その後、反対9の中から『「安全保障関連法案」の慎重審議を求める意見書』の動議が提出されました。動議はいきなり本会議で提案されました。結果は賛成11、反対4、欠席2で “採択”  となりました。私は、反対4のうちの一人です。えっ?なんで?矛盾してない?って思うかもしれませんが、“慎重審議” ってすごく幅の広い意見を包括しています。法案には賛成…だけど国民が理解していない…だから時間をかけて説得すべき!とか、法案には反対…だけど成立してしまいそう…だからその反対意見が聞き入れられるまで粘る!とか、法案の中身はよくわかんない…だけど政府は必要だって言っているし、一方で反対意見も多い…だからとりあえずよく話し合えばなどなど、だから “慎重審議を求める意見” っていうのは、多くの人に支持される意見、最大公約数の意見、無難な意見ってことになります。

今回の結論
 “成立断念を求める意見” も、ある程度の幅をもっていますが、基本は今審議されている法案には反対…だから成立を断念せよです。私は、今回の法案について言えば、憲法改正が発議され、国民投票にかけ、その結果として国民の過半数が支持したのであれば、そしてその改正憲法の範囲内で同じような法案が成立するのであれば受け入れるという意見です。現状はいくら慎重に審議をしたところで政府は成立させるために法案を出しているわけだし、強行採決だろうが、衆議院さえ通過してしまえば(参議院で否決されようが…)成立する状況です。しかも審議時間が100時間を超えているような状況で慎重審議を求めるということは、結果として法案に賛成という意思表示になります。でもハッキリと “賛成” と言えない…それくらいのボヤーッとした結論です。安保法案賛成=違憲OK、戦争OKと捉えられても仕方のない状況です。あくまで状況としてですよ、状況として…。

思考停止
 この件に限らず、私は多くの人が “思考停止” に陥っていると思います。その人たちそれぞれが悪いというより、これも状況として “思考停止” に陥らざるを得ない状況だと思います。だけどですよ、議員は絶対にその状況に流されてはいけないと思います。今回、慎重審議を求める意見書に賛成した人も考えているとは思えません。国民的理解が得られていない?憲法学者が違憲だと言っているから国会が混乱している?…だから何?って話です。意見書の中身(案ですがそのまま提出するでしょう…)をここに掲載します。

「安全保障関連法案」の慎重審議を求める意見書

 政府は、集団的自衛権の行使を柱とした「閣議決定」を具体化するための安全保障関連11法案を5月15日、国会に提出し、今国会での成立をめざしている。
 しかし、提案された安全保障関連法案は、政府与党が推薦した参考人からも憲法違反が指摘され、国会の中でも混迷をきわめている。
 よって、安全保障関連法案の今国会での慎重審議を強く求める。

 大丈夫ですか?これに “賛成” した皆さん?(特に国政政党に所属されている皆さ〜ん、与野党関係なく…)きっと「バカにしているのかっ!」って反応されますよ。文章としての出来は最悪だと思いますし…。いくら慎重審議をしても与党が法案を引っ込めない限り成立しますよ。また他の方は、「憲法学者の意見はどうであれ、国は領土や国民を守る義務を負うっ!」ておっしゃっていましたよね。心配です…ってことで今回のブログは終わりです。

2015年7月9日

教科書って何だ?【雑談】

宍粟市の今日は雨…。天気図を見ると台風が3つも…。台風が梅雨前線を刺激すると大雨になることが多く、私も1995年7月11日に長野と新潟の県境で起こった豪雨災害の経験者です。その時は幸いにも別の場所におり直接の被害にはあいませんでしたが、何ヶ月もその当時の家に帰ることができず避難生活を送った経験があります。また翌年の冬には、その災害復旧工事の現場で土石流が発生し、多くの方が亡くなりました。この時期になると思い出します。皆さん気をつけましょう。

検定教科書 
 宍粟市では今日まで “教科書展” が開催されていました。10日に臨時議会があり、その議案を市役所に取りに行ったついでに、ちょっと覗いてみようと思い立ち寄りました。現在、市内の小中学校で使われている教科書と来年度の候補がズラーッと並んでいました。実は宍粟市の中学校でも期末テストが終わり、うちの息子のテストが返ってきました。(結果は皆さんの想像にお任せします…。)うちの息子がどこをどのように間違えたか?返ってきたテストを眺め、息子にいろいろ聞くと…今の教科書ってどんな風なのか?自分たちの頃とは違うだろうなぁ〜と興味がありました。ちょっと覗くだけのつもりが2時間くらい眺めておりました。自分が小中学生の時にはそんなこと思いもしませんでしたが、教科書ってなかなか面白いものなのですね。

先生は大変
 検定教科書といっても、出版社によっていろいろです。最近では歴史と公民の教科書がいろいろと話題になりましたが、それ以外の教科についてはどれも大差ないだろうなぁと思いながら、中学英語と中学数学の教科書を幾つか見比べてみました。宍粟市では中学英語が開隆堂のサンシャイン、数学が数研出版の中学数学というのを使っているようです。当然ですが自分が中学生の頃の教科書とは内容が全く違いますね。私がその内容や選定に口を挟めるわけないのですが、チョット感じたことがあります。それは使う教科書によって、先生の教え方(力量?経験値?)への依存度が違うということです。教科書に書いてあることをたどっていけばある程度まで子ども達に伝わりそうだなぁ〜という感覚と先生が内容を噛み砕いて伝え方を工夫しないとなかなか子ども達には伝わらないだろうなぁ〜という感覚の違いです。

専門家に聞いてみたい!
 英語…出版社によって単元のまとめの位置にだいぶ差があるなぁと思いました。教科書の頭から順に授業をしていっても、単元のまとめまでたどり着かないで学期末を迎えてしまうような教科書もあります。中1の最初の方はbe動詞、一般動詞を扱っているようですが、文法としてのまとめが60ページあたりに登場する教科書があります。もし見通しを持たずページ順に授業をしていれば1学期でそこまで到達しないと思います。テスト範囲ってやつにも反映されないのでは…と思います。(もちろん “60ページ参照” みたいに随所に書いてはありますが…)
 数学…中1の1学期で文字式を扱っているようですが、説明の仕方に違いがあるなぁと思いました。文字式の最初の例として、60円 のものをX個 買った時の代金としての60XX円 のものを60個 買った時の代金としての60X…という表現の違いがありました。例えば①2,000円 60円 のものをX個 買ったときのお釣り?、②あるものが60個 欲しい、予算は2,000円、一ついくらだったら60個 買えるか?みたいに随分意味合いが違ってきます。①は文字(変数)が数字の後ろに来るというルールみたいなものには気づきにくい(触れなくても済んでしまう)と思います。その点で②は、X60 と表してもおかしくはありません。そこでルールを教える必要が出てくるのでは?…また、変数Xという意味では、こちらの方が生活実態?に合っている気がします。まぁ(誰かさんが…)授業でbe動詞、一般動詞って言葉自体を聞いたことがないなんて言うし、Are you play succer? みたいな回答をしているみたいだし…。数学では、2000-X60 みたいな回答をしているみたいだし…。頭痛いわっ!ぜひ専門家(そもそも誰が専門家なのかはわかりませんが…)と言うか詳しい人に聞いてみたいです。学識経験者って方が適当でしょうか?「生徒さんの理解力の問題ですね〜心配なら塾に通わせたらいかがですか?」とか「家庭で勉強をみてあげてください。」って言われたらどうしましょう…残念ながらどちらもできません。ごめんなさいって謝ることはできるかな…。

2015年7月4日

手段の目的化 【議論】

写真は本文と一切関係がありません。
宍粟市はまだ梅雨が明けていません…。雨音で目が覚める朝もしばしばあります。私の中でいつしか、雨=雨漏りという図式が出来上がっております。最近は家の中には漏れてきませんが、屋根裏でポタポタと音がします。文章で表現するのは難しいですが、ポタと次のポタは連続しています。1秒間に8ポタくらい…雨漏りしていないということではありません。その証拠に天井のシミが広がった気がします…。今日のブログは、いろいろな場面で常に引っかかること…それは “手段の目的化” です。それについて書きたいと思います。いろいろな場面で「いやいや、それって手段ですよね〜。そもそも何のためにしているんでしたっけ?」と尋ねることがあるのですが、なかなか答えは返ってきません。またそれを “文句” って捉えられてしまうので、それが厄介…。もう何も言えなくなりますよね〜(私の聞き方がいけないのかもしれませんが…。)

癖、習慣になるまで…
 私が社会人になった時、上司には本当に恵まれたと思います。とにかく「何の為に?」「目的は?」「なぜ?」と繰り返し問われ続け、育てていただきました。それは厳しく、時には自分自身を否定したくなるようなこともありました…しかしこの経験によって「なぜ?」を繰り返して自分に問いかける癖、習慣がつきました。「これをやることで何が達成できるのか?」「そもそも何のためにこれをやっているのか?」「他に方法はないのか?」と考えるということは、批判的に物事を見る(もちろん自分自身を批判的に見ることも含みます。)ということでもあり、それは “目的を見失わない”、“手段を目的にしない” ということです。批判というのは、そもそも多角的に物事を見ること、また多角的に見るように促すことではないのでしょうか?これをしなくなった時が “思考停止” に陥った状態だと思います。“思考停止” は、自らの可能性の否定だと思います。自分自身、また周囲の人が太鼓持ちやイエスマンばっかりだったら不幸です。

引っかかったこと
 誰がどこでおっしゃったかは忘れましたが、「◯◯の実現の取り組みに向けて議論する…」という文章…引っかかりますね〜。なぜ「◯◯の実現に向けて議論する」ではないのでしょうか?「何が違うの?」「重箱の隅をつつくようなことを…」と思われますか?議論すること(手段)によって実現させたいのは、“◯◯” という部分でしょうか?それとも “◯◯の実現の取り組み” でしょうか?これは大きな違いがあると思います。なぜ、このような回りくどい感じになるのか?それは知らず知らずのうちに責任回避をしている(または失敗した時に言い訳ができる余地を残している)ことの表れだと思います。「◯◯の実現に向け、その具体的な取り組みについて議論している」ということなんだろうけれど…。
 “◯◯の実現”を目的とした場合、議論という手段を通じて、◯◯が実現しなければいけません。または実現に向かわなければなりません。しかし、“◯◯の実現の取り組み” を目的(これも手段でしかないのですが…)にしてしまうと、議論という手段を通じて、◯◯の実現に向けてとりあえず取り組みました…で良いことにもなりかねません。もちろん、行為(手段)自体が目的になること、やること自体に意義があるものもありますがその多くはプライベート、娯楽、趣味の範囲のことです。これも長い目で見れば「人間らしく豊かに生きること」という目的につながることかもしれませんが…。

完璧ではないからこその自己批判
 “手段の目的化” って、ちょっと油断するとすぐ目の前にやってきます。だから常に自分自身に言い聞かせるのです。「これをやることで何が達成できるのか?」「そもそも何のためにこれをやっているのか?」「他に方法はないのか?」と…。目の前の行為に没頭するあまり、それをすることに自己陶酔し、本来の目的を失わないために…。
 この “手段の目的化” という罠は、「補助金を使って事業をする」場面に潜んでいることが多いのです。こんなことがしたい、あんなことしたいということは何か目的があってのこと(今回の場合、目的とそれを実現する手段が公的、社会的に正当性が認められるという前提です。)でもそれをするお金がないから補助金があれば助かるな〜、その補助金を使ってある “目的” を達成できれば、税金が社会に還元されたことになります。補助金はある公的、社会的に正当性が認められる目的達成のための “手段” です。しかし、こんな補助金があるなら、何か使えないかな〜となると一瞬で “補助金” を使うことが目的になってしまいます。そこに私利私欲(実際にお金として自分に入ってこなくても、名誉欲や権力欲みたいなものを満たそうとする場合も同様です。)があれば、それは税の使い方として酷い状態です。そんな税金の使われ方が横行しているのも批判的な視点が世の中に欠如していること、思考停止していることの表れではないでしょうか? 
 公務員、議員など公的機関に勤める者、給料や報酬の原資が税金である者は、相当な自己批判力を持たなければなりません。もちろん、公的機関に勤める者が生活し、子育てをし、余暇や趣味を楽しむことを否定する気はありません。ただ、自分自身の仕事が税金を使って行われていること、それは自分の存在自体が公的、社会的に正当性が認められた目的を達成するための “手段” の一つであることを意味します…と自分に言い聞かせながら、また思いが先行して取り留めのない文章になったことを反省しながら寝ます。